女性:
他人に対して色々としてあげたいし、
どんなふうにできたらいいのかと思ってきた中で、
そろそろ自分のパッションにフォーカスするときでは
ないのか?という声が聞こえてきたんです。
エイブラハム:
その声は、そう言っていたわけではないんですよ。
それに近い意味ではあるけれど。
あなたの願いがとても強いから、
心の中の声が聞こえた。
でも、それが本当に意味していたことは、
他人を助ける前に、もっと楽な流れを見つける。
まずは自分を優先させてでも、ということ。
周囲の人たちからの要求やアドバイスなどを
聞いていると、自分にフォーカスできな
く
なってきてしまうものです。
でも、あなたにはその準備できた。
だから今回のWSはまさにあなたにピッタリだし、
あなたは確実に理解できることでしょう。
たとえば、
どんなことを他人は言ってくるのですか?
あなたが自分にフォーカスできなくなるようなこと。
女性:
物心ついたときから家族に頼られてきたので、
エイブラハム:
そうではなく今の周囲の言葉とは?
あなたに何を求めているのですか?
女性:
。。。。。。
エイブラハム:
ただ、そう言ってみただけ?
女性:
あはは。。。。
(図星?)
エイブラハム:
物事をそんなふうに感じているだけ?
女性:
そう信じ込んでる部分があるんでしょうね。。
エイブラハム:
どんなふうに?
女性:
自分より他人を優先して
助けたり世話したりしなければならない、
ということ。
エイブラハム:
受け取るより与える方がいいからですか?
女性:
その方が楽だから。
エイブラハム:
受け取るより与える方が楽だから。
それは、受け取るのは悪くて
与えるのがいいことだから。。。。
与えると、他人は言う。
ありがとう!感謝します!
受け取ると他人は別のことを言う。。
受け取るのは自分勝手な行動であり、
与えるのが素晴らしい。
そんなふうに言われたことがあったのでしょうか。
女性:
文化の違いかもしれません。
中東の人間なので。。。
エイブラハム:
たとえば?
女性:
女性は男性の面倒を見なければならない。
自己犠牲が強い文化なんです。
そして、
エイブラハム:
いいんですよ。誰もが理解できるし、
ある意味、共感できることです。
文化の違いはあるかもしれない。
でも、人間関係においていえば、
多かれ少なかれ、誰にでもそんな部分は
あるものなのです。
あなたは与える方が気分がいいと言った。
そうですよね?
女性:
(実際には楽と言ってたのですが)
はい、与える方が気分はいい。
エイブラハム:
そこに少しでも満足感があるのであれば、
そこに意味があるわけで、
それについて考えてみましょう。
願った世界が現実になるとき、
あるいは、いいことが起きた時など、
誰か他人を通してそれが叶うことが
多いのではないでしょうか。
宇宙、あるいは神、ソース、
そうしたものたちが
誰かを通して、誰かに与える。
思わず誰かのために何かしたくなって、
喜んでそれをした。
そんな体験はありませんか。
ちょうどその場所に居合わせて、
誰かのために何かすることができた。
そのとき、なぜかものすごい満足感に
浸ってしまった。
あなたがソースと繋がっているときに
目の前に受け取りモードの人がいたら、
その人のために何かをしたいという
インスピレーションを受け取って
喜んでそれをせずにはいられなくなる。
でも、他人をあてにしてはいけない。
何かをしてもらうのは良くない。
そんな意見を聞き、
その視点で自分の生活を改めて見てみたら、
自分の相手は横暴で、
自分の好意を当たり前に受け取り、
異性を見下してる現実に気づく。
そのとたんにあなた自身が受け取りモードで
いられなくなるものの、
それが風習・文化なのだから仕方ない。
受け取りモードでない人が誰かのために
何かしようとすると、
憤りを感じてくるものなのです。
でも、同時に、
「与えたくない、受け取りたいだけ!」
というのも、法則から見れば、間違っている。
あなたが他人のために何かをしたとき、
本当の意味で受け取ることができるのは
誰なのか知っていますか?
あなた、です。
自分は与える側なのか、受け取る側なのか?
と考えるとき、
人間はどちらでもあるわけですが
あなたの受け取りモードが定着していれば、
宇宙はあなたを通して誰かに何かを与えることで、
あなたに満足感を与えてくれる。
その時点であなたは
「誰かのために何かをした。与えた」
という気分に陥ることはなく、
素晴らしいタイミングのおかげで
「他人と共創できた!」
という気分になるはずなのです。
もちろん、
あなたは他人のために何かをしたい。
でも、あなたが受け取れなければ、
本当の意味でそれはできない。
だから、あなたの心の声は
受け取りモードになりなさい、
と言っているのです。
他人ではなく自分のために何かをするときがきた、
と言ってるわけじゃないのです。
(会場拍手)
あなたの好意を受け取る殆どの人たちは
受け取りモードになっていたとしても、
そうじゃない人もいることでしょう。
長いつきあいの人とか、
偶然そういう人に出会ったときとか。
その人たちが受け取りモード状態ではなく、
「要求モード」だったり、
「してもらって当たり前モード」で、
あなたを自分ボルテックスに見立てるべく、
自分の幸せや気分の良さを依存すると、
あなたはいい気分がしないし、
だからといってそこから立ち去るわけにもいかない。
そんなとき、
あなたさえ受け取りモードになることができれば、
物事は変わるのですよ。
自分が利用されてる、いいように使われてると
感じているとき、物事は、その通りに展開します。
それが法則だからです。
自分は受け取りモードなのだと認識し、
他人に与えることができるし、
自分の源はどんどん満たされ続けているのだから
与え続けても渇くことなどないのだと信じていれば、
その流れを理解した、同じ波動の人たちが
自然と集まってくることになる。
欲しいものは今すぐ欲しい!
全部欲しいし絶対手に入る!
っていう欲張りな子供たち。
(会場・笑)
それはいいのだけど、大きな間違いは、
すべてが親を通して叶うと思ってしまうところ。
最初の頃は、親がそう導いてしまったりする。
そうすることが気分がいいから。
だって子供たちは可愛すぎるし。。。ちっちゃい頃は(会場笑)
愛しすぎてたまらないし。。。寝てる間は(会場笑)
一緒にいるだけですんなりと受け取りモードに
なれてしまう。子供たちのおかげで源と
ぴったりと一致できて、そんなときには
与えたい気持ちも強くなる。
でもそのうちに、
子供たちの要求ばかり呑むような
親になるべきではないと思い始めるし、
子供たちが受け取りモードになったときに、
そこに居合わせるようになってくる。
自分自身の(与えたい)インスピレーションが
子供たちの(受け取りたい)インスピレーションと
見合うようになってくる。
それは、要求、とは違うものです。
誰だって子供やパートナー、上司、部下、彼、彼女に
要求されたくはない。
あなたがしっかりと
受け取りモードになっていれば、
周囲はあなたに要求はできないし、
そのアクセス方法も持ちません。
彼らが受け取りモードになったときに
あなたがインスピレーションを受けて、
すんなり与えることができるだけ。
準備の準備ができたとき、
準備の準備ができた人と分かち合う。
それこそが、人生の最高レベルの体験なのですよ。
★2017年1月LAで行われたWSの対話の
一部をもとに書きました。
直訳ではありません。多少、省略もしています。
2017年の幕開けも素晴らしい内容で、
1月のキーワードは「準備のための準備をする」
「与えることは受け取ること」
といったもののようです♪